『もしもし?』
「……成歩堂」
『あ~、ごめんね、御剣。今、時間ないんだ。後でかけ直すからさ。じゃ』

一方的に切られた電話に御剣は深い溜息をついた。
もう何回こんなやり取りをしただろうか。
ここ一年、成歩堂は弁護の依頼ばかりかテレビ出演や雑誌の取材も受け、業界誌にもコラムを書いたりと忙しくしている。
おかげで会える時間は劇的に少なくなった――否、もはや皆無に等しい。
御剣は目の前に並んだ夕飯をぼんやりと見つめた。
ヒラメのカルパッチョ、ジェノベーゼのパスタ、鴨のロースト、ティラミス、よく冷えたフリザンテ……
ジェノベーゼは手を抜かずにペーストから作り、ちょっとだけ洋酒を効かせたティラミスも好みの味になるまで何度も挑戦したものだ。
成歩堂はチーズとハチミツの組み合わせに懐疑的だったから、一度食べさせれば解るだろうとお気に入りのチーズも用意しておいた。

『オムライスとかハンバーグとか、この歳になってもやっぱり好きなんだよね』
『ナスの味噌煮込みってなんでこんなに美味いんだろうね』
『秋はサンマが一番だよね~』

そんな何気ない一言をいちいち心に留めてきた。
おかげで料理のレパートリーがどれだけ増えたか、キミはきっと知らない。

午後11時。
時計の下にある壁掛けのカレンダーに目を遣れば、今日の日付が赤ペンで囲まれていた。
新年を迎え、カレンダーを取り替えた際に成歩堂が付けたものだ。

『さて問題です。この日は何の日でしょう』
『キミの誕生日だったと記憶しているが?』
『さっすが御剣! オマエの誕生日にも丸付けとくね。あ、花丸にしとこうか』

12枚綴りのカレンダーは数枚めくるだけで季節が変わる。
成歩堂の誕生日は夏休みの少し前。
いつもテスト期間と被ってイヤだったと言うので、それは私も同じだと応えてやった。
御剣の誕生日はカレンダーの最後の一枚の中にある。

ピタリと重なった長針と短針が再びズレていった。
電話は鳴らない。
メールも来ない。
耳を澄ましたところで、足音なんて聞こえるはずもなかった。
メールの作成画面を起動させてはみたものの、言葉に迷って結局終了を選んだ。

お祝いの言葉は直接言ってあげたい。
いつ帰ってくるのかと問えば、キミは『わからない』と答えるに決まっている。
何処にいるのかは尋ねる気もない。会えない事実をより一層思い知らされるだけだ。
何より、もうキミの『ごめんね』は聞きたくない。

欲しい言葉をくれない携帯を見るのも辛くなって、御剣はそれを鞄に仕舞った。

*****

送りますよと言ってくれたスタッフの申し出を丁重に断って、駅からの道をダラダラと歩く。
日中の陽射しもほんの少しだけ和らいできたようだ。
時折、涼しい風も吹いてくる。

「ただいまー」

ガチャガチャと鍵を開け、誰もいないことは承知ながら声をかけた。
平日の昼間。
御剣は仕事中のはずだ。
検事局の執務室で書類を書いているか、或いは現場検証をしているか。
もしかすると法廷に立っているのかも知れない。
滔々と流れるような弁論に相手の弁護士がたじろいでいる様を思い浮かべてしまい、成歩堂は思わず笑みを零した。
自分だって人のことを言えた義理ではないけれど。

「うわ、暑っ!」

閉め切られたままのカーテンと窓を開け、こもった熱を逃がしながら成歩堂は室内を見回した。
ここに帰って来たのは、ずいぶん久しぶりだ。
大学や市民団体など、あちこちからの講演依頼も受けていたから、この一年というもの日本中を飛び回っていたのだ。
くたびれたスーツをハンガーに架け、キッチンに向かう。

「あ~、しまった! 買い物してくればよかったよ」

冷蔵庫には食材と呼べる物はほとんどなかった。
使いかけのバター、コンソメブイヨン、初挑戦したピクルス、半分減った紅茶味のジャムに缶ビールが数本、几帳面に並べられた栄養ドリンクが約1ダース、その隣に御剣お気に入りのミネラルウォーターが未開封のまま2本。

「あれ?」

成歩堂の目はそのミネラルウォーターに釘付けになった。
御剣が紅茶をいれる時に使うそれは、いつも5本になるよう小まめに補充されていた。
売っている店が少ないことと値段を聞かされて思わず『勿体ない!水なんて水道のでいいじゃん!』と叫んだら、物凄い形相で異議を唱えられたのを憶えている。

なんだか胸騒ぎがした。
くるりと振り返って食器棚の一角を見ると、それは確信へと色を強めた。
紅茶の缶が3つとも消えている。
いい茶葉が手に入ったと御剣がほくほく顔で持って来て、問答無用で置いていた物だ。

「まさか…嘘だろ…?」

せっかく選んで買ってきたのにセンスが悪いと酷評されたティーカップは2客とも揃っていた。

お揃いのマグカップなんてものは初めから存在していない。

バスルームのシャンプーとトリートメントは残されていた。

洗面所から歯ブラシが消えていた。

なるほどくんにソックリでしょ、と真宵がくれたサボテンの周り。
ぐるりと囲むように置かれたトノサマンフィギュアはそのままあった。

レコーダーの下のトノサマンDVDは持ち帰られていた。
一緒に見ようと何度も誘われたが、興味が沸かず結局一度も見たことはなかったっけ。

きっと似合うよ、なんて冗談で無理矢理買わせたのに、ホントに似合ってしまったアニマル柄のパジャマはクローゼットの隅に綺麗に畳まれていた。

自宅から持ち込んでいた普段着は、また自宅に戻ってしまったようだ。

「今度は書き置きもなし、か…」

キッチンに戻り時計を見ると、長針と短針は真逆を向いていた。
その下にはひと月前のままのカレンダー。

「誕生日、忘れてたなぁ…」

赤ペンで丸まで付けたのに。
御剣はちゃんと覚えててくれて。嬉しくて調子に乗ったら、真っ赤な顔した御剣に照れながら怒られたっけ。

「何、これ…?」

思い出に浸っていた成歩堂は目に映った物を確かめようと、カレンダーに近付いた。
自分が書いた赤丸の上。

まるでそれを消そうとするかのようにボールペンのインクが走っていた。
何度も、何度も。
爪で引っ掻いたみたいに。
黒い×印が刻まれていた。

「これ…御剣が…やったのか……?」

悲鳴さえ聞こえてきそうなそれを、成歩堂は信じられない面持ちで見つめた。

*****

成歩堂の誕生日から一ヶ月余りが過ぎた。
世間はそろそろ盆休みに入り、帰省ラッシュで各種交通機関が慌ただしく情報を伝えてくる頃だ。
あれから一度も、あの家には行っていない。

今日もいつもと同じ朝。
検事局のエントランスで執務室のキーをもらい、エレベーターの前を通り過ぎて階段へ向かう。

またエレベーターに乗れなくなってきていた。
DL6号事件の真相が明らかになった後、カウンセラーの助言に従いながら少しずつ慣らして、1階から12階まで問題なく乗れるようになっていたのに。

『頑張ってるね、御剣。ご褒美は何にしようか?』

成歩堂はそんなことを言って、優しく笑ってくれた。
あの狭い空間で恐怖心が沸いてきた時は、目をつぶってその笑顔を思い浮かべるようにした。
独特の浮遊感にはまだ馴染めずにいたが、1分にも満たない時間を過ごすには最強のお守りだった。

正月以来、顔を見ていない。
成歩堂は除夜の鐘が鳴り終わる頃にやっと帰って来たかと思うと、新年会に呼ばれているとかで夕方には出ていった。

傍にいてくれと縋ればよかったのだろうか。
力ずくででも引き止めれていれば、キミは苦笑しながらも私の我が儘を聞いてくれたのだろうか。

『約束はできないけど、誕生日は帰れるようにするよ』

アジサイの花を見ながら受け取ったメール。
きっと真に受けた私が愚かだったのだ。
作った食事は結局口を付けないまま捨ててしまった。
あちこち片付けをして、荷物をまとめて。
戸締まりをした後、合鍵は有り合わせの封筒に入れて郵便受けに突っ込んで来た。
二度と来るまい。そう決意した。
キミのいない部屋で独りで過ごす虚しさには、もう堪えられない……

*****

「おはようございます、御剣検事」
「おはよう」
「今日も暑くなりそうですわね」
「うム」
「うちの息子ったら、夏休みの宿題が終わらないって今頃慌てふためきだして。ふふっ……検事はどうでした?7月中に全部終わらせてたんじゃありません?」
「いや、そんなことはない。自由工作が苦手で友人に……」

事務官のおしゃべりに付き合っていた御剣は、不意にそこで口を閉ざした。
そんな夏休みを過ごしたのは、ただ一度。
それなのに残る記憶のなんと鮮明なことか!

あの時のお節介な友人は、再会後いつの間にか恋人へと呼び名を変えていた。
こちらに負担を感じさせない程さりげなく、それでいて必要な救いの手をしっかりと伸ばしてくれる人。

私があまりに依存しすぎたせいで、重荷になってしまったのだろう。
手がかかるばかりで、きっと私の傍では安らげなかったに違いない。
早く気付いてやればよかった。

「検事? 大丈夫ですか? どうかなさいました?」

事務官の声に御剣はハッと我に帰った。

「すまない。少し…考え事をしていた。話は何だったろうか?」
「差し出がましいようですが、検事。ちゃんとお食事なさっていらっしゃいますか?ここのところ急激に痩せられて……わたくし心配ですわ」

御剣の青白い顔に、事務官は眉を寄せた。
もともと色の白い人だが、こんな不健康な白さではなかった。
体調管理には気を遣っていたし、料理が楽しくなってきたとも言っていたはずなのに。

「少々夏バテ気味なのだよ。食事はきちんと摂っているから安心してくれたまえ」

御剣の視線は斜めに逸れていた。
分かりやすい嘘に付き合いの長い事務官が騙されるはずもない。
咎めるような眼差しを、御剣はくるりと背を向けることで避けた。

デスクについてノートパソコンを開き、メールをチェックする。
やや気詰まりな沈黙の中、しばらくカタカタとキーを打つ音だけが小気味よく響いた。

「そういえば、先日の公判の資料は届いて――ッ!!」

書類整理をしていた事務官に声をかけた時だった。
視界がぐらりと揺れ、次いで全身を激しく揺さ振られる感覚が襲う。
椅子から滑り落ちるようにして床に両膝をついた御剣は爪が食い込む程手を握りしめ、浅く速くなる呼吸をコントロールしようと意識した。

『いい、御剣? 僕が数を数えるから、それに合わせてゆっくり呼吸して』

災害時にパニックを起こしていては命に関わる。
ごく僅かな揺れにも過剰に反応して飛び起きた御剣を、まずは落ち着かせようと成歩堂は辛抱強く対応した。
氷のように冷たくなった手をぎゅっと握りしめて向かい合い、御剣の意識を自分に集中させ、それからゆっくりと数を数える。

『どう? 少しはラクになった? もし発作が起きたら、この方法を思い出してやってみてよ』

瞬きも忘れ見開いたままの目に、じわりと涙が浮かんだ。
無意識の内に凝視していた自分の両手から、成歩堂の手がするりと離れていくのが幻視(み)えた。

『ごめん、後でね』

ああ、またその言葉なのか……

呼吸は落ち着くどころか、ますます酷くなった。
気管を何かに埋めつくされてしまったかのようだ。

キミの『後で』は……

「検事! 落ち着いて、ゆっくり息をして下さい! 検事! 検事!」

チアノーゼを起こしかけている御剣の耳に、事務官の懇願はぼんやりとしか聞こえなかった。

「おい、大丈夫か?!」

乱暴に開けられたドアに事務官が振り返る。

「ロ……」
「チアノーゼか! アンタは早く医者を呼んでくれ! 話には聞いてたが……いつもこんなに酷いのか?」

ああ…温かい…

頬に触れた誰かの手の感触に身体が弛緩する。

ずっとこのままでいられたらいいのに…

薄い瞼とともに、御剣の意識もすうっと落ちていった。

*****

お客様がおかけになった番号は現在電波の……

もう何度聞いたか分からないアナウンスに苛立って、成歩堂は乱暴に携帯を閉じた。

2台の携帯を使い分ける御剣は、仕事中だからとプライベート用の端末をマナーモードにしていることが多い。
通常なら留守番電話サービスに切り替わるはずなのだが。

「電源、入れてないってことか……」

仕事用の端末は番号を聞いていなかった。
必要ないと思っていたからだ。

さっき地震が起こった。
速報によれば震度は2、短い揺れだったが御剣はまた怯えて震えているかも知れない。

「あ、そうだ!」

成歩堂は思い立って、馴染みの刑事に電話した。

『何の用ッス! 今忙しいッス! アンタの相手してる暇はないッスよ!!』
「あ~、すいませんイトノコさん。えーと、そこに御剣がいたら替わって欲しいんですけど…」
『ちょっと待つッス』

電話が遠ざけられて、やりとりをしている気配が伝わってきた。
だいぶ時間がかかって、もう御剣は出るつもりがないのだと諦めかけた時――

「……もしもし」

少し掠れた声が聞こえてきた。

「御剣、さっきの地震大丈夫だった?」
「…………だ……」
「え? 何? 聞こえないよ。御剣?」
「……キミが……いないんだ……」

感情の見えない平淡な喋り方。
まるで再会した当初みたいで、成歩堂は奇妙な焦りを覚えた。

「そりゃ悪かったと思ってるよ。でも僕だって忙しかったし、仕事ほっぽりだしてオマエに会いに行くわけにもいかないだろ? オマエだってさ、急に会いに来てよって言われたら困るだろ?」
「……だから……もう……要らなくなったんだと…思うことにした……」

何だよ、それ! ちょっと待てよ!

「ね、御剣。後でちゃんと会おうよ。今日なら僕も時間あるんだ。7時はどう? どこかで夕飯でも食べながらさ」
「…………」

おい、黙ってないで何か言えよ!

「――私にとって」
「?」
「キミの言う『後で』は……」

『ない』と同じ意味なのだよ――

携帯が素早く閉じられた音がした。
直後にツー、ツー、とやけに無慈悲な音が流れ出す。

かけ直す…べきなんだろうか?

*****

「糸鋸刑事、もう取り次がないでくれたまえ」

医務室に戻ってきた糸鋸に携帯を返しながら、御剣はそう言った。

「了解ッス! あ、鞄お持ちしたッスよ」
「うム、すまない。それで捜査のほうは…」
「心配いらないッス。自分が今から行って来るッス。検事はちゃんと休むッスよ!!」
「ム…うム、承知した」

刑事に言われるまでもない。
腕に刺さった点滴が終わるまでは、どのみち動けないのだ。

『御剣、大丈夫だった?』

久しぶりに聞いた声に、息が止まりそうだった。
キミの心配は胸に痛い。
なんだってこんな時に電話を寄越すんだ。
忙しく飛び回っているキミは、地震になんか気付きもしないはずだろう。
キミが教えてくれた方法で、何度あの恐怖をやり過ごしたか知らないだろう。

そして今日は、その方法が効かなかったことも。

『後で会おう』

キミはそう言った。

私にとっての禁句を、キミは言ってしまったんだ。

『今さ、手が離せないんだ。後で食べるよ』
『そんなの後でいいじゃない』
『あー、はいはい。後で一緒に見てあげるから』
『電話、後でかけ直すね』
『後でメール入れるよ』

キミの『後で』とは、いつなのだろう?
一時間後?
一日過ぎてから?
一週間経っても、まだ有効なのか?
ならば一ヶ月も?
一年も?

私はいつまで待てばいい?

鞄から携帯を取り出して電源を入れると、サーバーに貯まっていたメールが次々に送られてきた。
全部読まずにフォルダごと削除した。

メモリを呼び出した。
表示される捻りのないメールアドレスと、忘れることなど出来そうにない番号。
どうしようもなく震える指でそれを消して、また電源を切った。

明日にでも解約に行こう。

打診を受けた海外出張は保留にしていたが、まだ間に合うだろうか。

転勤を願い出てもいい。

もうキミを待たない。

私はもう
キミを
待てない。




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