オーブンが心まで弾むような音を立ててスポンジが焼き上がったことを知らせた。
市販されている混ぜて焼くだけのものだから、普段ケーキなんか焼いたことのない僕にも簡単に出来た。
あとは紙製の型から外して粗熱を取る間にチョコクリームを作り、イチゴをスライスしてしまえばいい。
ボウルに氷水をはると、僕は生クリームを泡立て始めた。
やりつけない人間にはこの作業もなかなか骨の折れるものだが、妙な意地とでも言おうか、電動ミキサーのお世話になる気はない。
八分だての生クリームに湯煎で溶かしたチョコを入れて混ぜ合わせていると、ピピッと電子錠の外れる音がした。
「お帰り。意外と早かったね」
「……うム。ただいま」
御剣は僕がここに来ていることに、ちょっと驚いたような顔をした。
会おうとは言ったけれど、具体的な約束はしていなかったからムリもないか。
「夕飯出来てるよ」と言うと、「キミはいつからここにいるのだ」と呆れ声が返ってくる。
でもそこに嬉しさが混じっていることを僕は知っている。
「そういえば、今日は女性職員にやたらと今夜の予定を聞かれたぞ。用事があると答えたら一様にガッカリしたような顔をして、早く帰った方がいいですよと諭された。さっぱり意味がわからん」
洗面所でうがいと手洗いを済ませた御剣が首を傾げながらキッチンに戻ってきて、僕の手元を覗き込む。
ご自慢のロジックも相変わらずこういう方面には働かないらしい。
《バレンタインデー》と《女性からのアプローチ》──この二つが揃えば大抵解りそうなものだけど、御剣にはまとめられなかったようだ。
「食事にでも誘いたかったんじゃないの」
代わりに僕がまとめてあげたら、御剣は「何故だ?」とますます不可解そうな顔をした。
ルックスいいし、選ぶお店に不安はないし、ワインのテイスティングだってバッチリだろうし、割り勘なんて無粋なことも言わないだろうし、何より完璧なエスコートが付いてくる。
浮いた噂のひとつもあるわけでなく、女性にとっては正に優良物件だろう。
「ところでキミは何をしているのだ?」
「ご覧のとおりケーキを作ってるんだけど」
「ケーキを? すごいな、キミは。その家事能力には驚かされてばかりだ」
「褒められて悪い気はしないけど、コレ簡単に出来るやつだから」
「だとしてもキミが作ったことに変わりないだろう?」
「まあ、ね」
話しながら混ぜていたせいか、ボウルを置いた僕の左手親指にはクリームがベタリと付いていた。
それに気付いて味見にちょうどいいやと口に運ぼうとすると──僕は夢でも見ているのだろうか?
不意に御剣の手が伸びて来て、ぱくりと僕の親指を口に含んだのだ。
「み、みみみみ御剣?!」
クリームを舐めとる舌の感触がやけに生々しくて、ヘンに動揺してしまう。
「なんだ?」と問うように向けられる駄目押しの上目遣いに、僕は理性の崩壊する音を聞いた気がした。
これは…つまり…アレだよな?お誘いじゃないほうがオカシイっていう…
「御剣…その…いいんだよね?」
逃げられないように肩を掴んで、僕は真剣に尋ねた。
ここで浅ましく喉を鳴らしたりしちゃったら拳が飛んで来ないとも限らないので慎重に。
「成歩堂?」
僕の態度に御剣は戸惑っているみたいだけど知るもんか!今日こそは絶対に!絶対に!!
「そんなに心配せずとも、クリームの味ならよかったぞ」
「は?」
「まあ、私の好みで言えばチョコレートをもう少し」
「えっと…」
「もう出来上がるのだろう?着替えてくる」
状況を把握していない、いや、把握したくない僕を取り残して、御剣はさっさと着替えに行ってしまった。
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